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フランス人に日本料理をすすめる時

コンピエーニュの友人の家では、日本料理を伝授しました。

暑い夏にすすめる日本のレシピは、母が好きでよく作っていた冷やしうどん。
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今回はマカロニを使ってますが、本来はうどんです。
マカロニは普段よりも軟らかく煮て、冷やします。
人参、大根をおろし、
キュウリ、生野菜を付けあわせます。

一番重要なのが味噌のたれ。
赤みそに、レモン、ごま油(ないのでオリーブ油)、ねり胡麻、手作りのジャムを砂糖の代わりに入れて、よく錬る。
これらを盛り合わせ、混ぜ合わせて、いただきます。
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韓国のビビンバも作りましたよ。
ごはんに残り物のお惣菜を盛り、ビビンバソースをかけていただきます。
友人の家には、チベットのお坊さんが聖なるエネルギーを入れたお米というのがあって、それを炊いてみました。うこんかなにかの香辛料が入っていて、黄金色のご飯ができました。

ソース:味噌、醤油、生卵の黄身、レモン、練り胡麻、ニンニクおろし、ショウガ汁、なし(なければりんごか、果汁)のおろし、タマネギのおろし、水少々をよく混ぜ合わせる。

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クローディーヌの作ってくれたズッキーニのタルト。
ふわふわ加減が最高で、味も素晴らしい出来でした。
材料を聞いたら、やはり、生クリームを使っているということでした。
次回、私は米か大豆のクリームで作りたいと思いました。

フランスでも牛乳の乳製品が体に悪いということは、かなりの人が知っていて、それなりに工夫して料理しているようです。
最近では、穀類、ココナッツ、アーモンドなどで作られたクリームが売られるようになりました。

日本では伝統的な料理は、健康にいいということですが、フランスでは逆に伝統的(と言っても近代のものでしょう)なものは、今、問い直しされています。

でも、どろっとした口当たりのよいクリームソースが何よりも彼らの好みなので、それに似た味を違う素材で作ることも挑戦しています。
それと平行して、純日本料理を時々味わってもらうという策戦で、友人たちにすすめています。
味噌、醤油、のり、すし、はもうお馴染みになりました。
これから必要なエレメントは、フランスも日本も、サービスの心でしょうか?
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by lamteramoto | 2010-07-27 06:26 | 食・レシピ・エコロジー

革命記念日前夜祭に踊った時

息子から先日、フランス革命記念日前夜祭の夜にセーヌの橋で踊ったときのビデオの中の写真数枚が届きました。
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いつもの散歩道、ミッテラン国立図書館のだだっ広い木製の床の敷地に立ってセーヌ河を眺めながら歩くように監督(息子のSim)から言われ、それらしく歩く私。

久しぶりの浴衣で、セーヌに出ましたが、この夜はある覚悟をしていました。
それはもう今までの私ではなく、自分を通して、宇宙の愛を流したい、その時が来ている、そういう思いが強くなっていました。
そんな思いのせいか、自分の体が自分のものでなくなったような、
誰から見られていてもあまり気にならない自分でした。

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まだ私も動画として見ていないので、何とも言えませんが、
監督の意見は美しく撮れていた、ということです。

茶道のPRフィルムになるのですが、まだお茶のシーンは撮っていません。

監督が質問をして、それに私が答えるインタビュー形式のものになる予定です。

新しい時代の茶人の一人となれれば、言うことありませんが、自信はもう一つです。
着物を着ずに、抹茶も茶筅もなく、茶人になれるのであれば、
そのような茶人の道が、これからの私の旅になるのだと思います。

「一服、差し上げます  どうぞごゆっくり」
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by lamteramoto | 2010-07-27 05:58 | パリの日常

フランス革命と人権宣言

コンピエーニュのシャトーで、ナポレオン1世と2番目のお妃の展覧会に招待されたのを切っ掛けに、当時の歴史をざっと紐解いてみました。

フランス人の友人も革命のことについてあまり細かいことは憶えていないらしく、いろいろ興味がわいて質問しても、はっきりした答えはもらえませんでした。
フランス人にとって革命記念日は残っても、革命のストーリーはあまり必要ではないのでしょう。
私自身も日本の歴史について聞かれても、しどろもどろなのでちょっと安心しました。

それでも、今回、どのように革命が人間の手によって成されたのか興味を持ちました。
そこでいろいろ調べたり、Youtubeで古い映画やTV映画によって再現されたものを見てみました。
女性たちもかなり参加していて、現代の女性の意識の変革への道を開いたようにも感じました。
家庭の主婦だけでなく、当時娼婦として運命づけられた女性たちが積極的だったことも新しい発見でした。

女性たちが武器を手に取って、城に乗り込んでいった場面など、食べ物がないことが理由だったとしても、人間の覚醒へのステップであったと思いました。

革命を指導したロベスピエールとダントンのライバル意識も、人間臭い背面教師として、これからも忘れてはいけない部分ではないでしょうか。
ナポレオンも王制を改革するために、外国と闘うのですが、いざ自分が権力の座に着くと、自分自ら皇帝になり、以前の宮廷時代と全く同じ政治を始めるということになってしまいます。

また、革命の背後には植民地戦争があったことを見逃してはなりません。アメリカの独立戦争は、紅茶の税金がきっかけとなって暴動が始まります。そして英国から独立することへ動き出します。

このアメリカの独立戦争に惹かれ、参加してフランスに戻ったラファイエット侯爵という人が、フランス革命に大きな力を注ぎます。この貴族出身の男性が、なぜこれほどに革命へ情熱を燃やしていったのか、その理由を探しましたが、今までの調べでは、納得いくレポートを発見できませんでした。

ただ、一つ気になることは、彼が2才の時に父を失っていることです。心のバランスを何かによって補う必要があったのではないか。もちろんこれは私の勘ぐりです。父親の不在は、偉過ぎる父を持つ子供と同様に、父を超えようとする時にハードルが高くなるという心理学の押し売りです。

ラファイエット、フランス人権宣言を起草 (ウキペディアから)
1789年、ラファイエットは三部会の第2身分(貴族)代表として選出された。しかし、アメリカ独立戦争(1775-1783)を戦った彼は、フランスの絶対王政を立憲君主制に変革するべきだという構想を持ち、第2身分でありながら第3身分(平民)の側に立って、議会政治の実現に向けて行動した。ラファイエットは、バスティーユ牢獄襲撃後に新設された国民軍司令官に任命されるとともに、フランス人権宣言の起草に着手した。国民議会で採択された人権宣言は、第1条で「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」という人間平等を、第2条で天賦の人権、第3条で人民主権、第11条で思想の自由・言論の自由、第17条で所有権の不可侵をうたっており、近代民主主義発展史上に記念碑的な位置を占めるものであった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%88


<フランス人権宣言>(注:この中の『人』とは白人の男性のみです)

第1条(自由・権利の平等)
人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない。

第2条(政治的結合の目的と権利の種類)
すべての政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。

第3条(国民主権)
すべての主権の淵源(えんげん=みなもと)は、本質的に国民にある。いかなる団体も、いかなる個人も、国民から明示的に発しない権威を行使することはできない。
                                   
第4条(自由の定義・権利行使の限界)
自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある。したがって、各人の自然的諸権利の行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法律によってでなければ定められない。

第5条(法律による禁止)
法律は、社会に有害な行為しか禁止する権利をもたない。法律によって禁止されていないすべての行為は妨げられず、また、何人も、法律が命じていないことを行うように強制されない。

第6条(一般意思の表明としての法律、市民の立法参加権)
法 律は、一般意思の表明である。すべての市民は、みずから、またはその代表者によって、その形成に参与する権利をもつ。法律は、保護を与える場合にも、処罰 を加える場合にも、すべての者に対して同一でなければならない。すべての市民は、法律の前に平等であるから、その能力にしたがって、かつ、その徳行と才能 以外の差別なしに、等しく、すべての位階、地位および公職に就くことができる。

第7条(適法手続きと身体の安全)
何 人も、法律が定めた場合で、かつ、法律が定めた形式によらなければ、訴追され、逮捕され、または拘禁されない。恣意的(しいてき)な命令を要請し、発令 し、執行し、または執行させた者は、処罰されなければならない。ただし、法律によって召喚され、または逮捕されたすべての市民は、直ちに服従しなければな らない。その者は、抵抗によって有罪となる。

第8条(罪刑法定主義)
法律は、厳格かつ明白に必要な刑罰でなければ定めてはならない。何人も、犯行に先立って設定され、公布され、かつ、適法に適用された法律によらなければ処罰されない。

第9条(無罪の推定)
何人も、有罪と宣告されるまでは無罪と推定される。ゆえに、逮捕が不可欠と判断された場合でも、その身柄の確保にとって不必要に厳しい強制は、すべて、法律によって厳重に抑止されなければならない。

第10条(意見の自由)
何人も、その意見の表明が法律によって定められた公の株序を乱さない限り、たとえ宗教上のものであっても、その意見について不安を持たないようにされなければならない。

第11条(表現の自由)
思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一つである。したがって、すべての市民は、法律によって定められた場合にその自由の濫用について責任を負うほかは、自由に、話し、書き、印刷することができる。

第12条(公の武力)
人および市民の権利の保障は、公の武力を必要とする。したがって、この武力は、すべての者の利益のために設けられるのであり、それが委託される者の特定の利益のために設けられるのではない。

第13条(租税の分担)
公の武力の維持および行政の支出のために、共同の租税が不可欠である。共同の租税は、すべての市民の間で、その能力に応じて、平等に分担されなければならない。

第14条(租税に関与する市民の権利)
すべての市民は、みずから、またはその代表者によって、公の租税の必要性を確認し、それを自由に承認し、その使途を追跡し、かつその数額、基礎、取立て、および期間を決定する権利をもつ。

第15条(行政の報告を求める権利)
社会は、すべての官吏に対して、その行政について報告を求める権利をもつ。

こちらのサイトから転載しました
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura
/furannsujinnkennsenngenn.htm

写真:コンピエーニュのシャトーと公園
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このシャトーは、17世紀にルイ14世の意向で建設されたと言われていますが、本人はあまり使用せず、ルイ15世が狩りのために(大きな森に囲まれているから)好んで来ていたらしい。
18世紀〜19世紀、ナポレオン1世と3世も、狩りの館として、そして特に3世のスペインから来たお妃ウジェニーが楽しんだ場所のようです。
現在は国立の美術館となっています。
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学校から子供たちが見学に来ていました。
そのガイドをしていた二人が当時の衣装を着ていたので、写真を撮らせて頂きました。
人物のところが影になってしまって残念!
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by lamteramoto | 2010-07-27 02:39 | Nouvelle Terre愛の地球作り

久しぶりのコンピエーニュ 2

出会いというのは、本当に面白いものですね。
パリの暮らしは30年以上にもなるというのに、友らしき親しい友人はいないんです。以前はいたのですが、離婚と同時に皆離れていきました。夫の友人で満足しいて、いかに自分の自立がなされていなかったかということの証明です。

さて、今回のコンピエーニュ滞在は、友人クローディーヌの母親が先日他界し、両親二人ともが短い期間に亡くなったことへの慰めを兼ねていました。数年、彼女の家庭の話を聞いて来た私は、今回も聞き手に回ろうと思っていました。ところがクローディーヌは、彼女の方が私を慰めようと、森に連れて行ってくれたり、私が喜びそうな友人を紹介してくれたり、いたせり尽くせり。こんな友がいてくれることに感謝一杯でした。

彼女のアパルトメントは、絵画が好きなだけあって、センスのいい家具と暖かい色に包まれて、いつ行っても和みます。
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農園に一緒に行ったDさんは、息子さんが焼き物のアトリエを開いているということで、話を聞いていると、日本に深い憧憬を持ち、『楽焼き』を教えているということでした。茶道をしている私との出会いは、彼にとっても喜ばしいものになると、Dさんは心から、私たちの出会いを喜んでいました。今回は息子さんが旅に出ていたので合うことは出来ませんでしたが、秋には是非!と約束を交わしました。

また、もう一人の初めて紹介されたブリジットさんは、「茶道の教室をやるのであれば、絶対参加する」と、嬉しそうな微笑みをみせてくれました。彼女の特技はオリエンタルダンスだそうです。
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そして、Cとブリジットさんが治療を受けているセラピストの話に興味がわき、もし可能なら私も合いたいとCに話したら、すぐ電話してくれ、しかも、何ヶ月もセッションの空きがないが、火曜日の朝に一つキャンセルした人がいて、偶然空いているということで、すぐ私のために押さえてくれました。

セラピーセッションの日はコンピエーニュ最後の朝。出掛ける前に2匹の蝶が部屋に迷って入り込んでバタバタしていました。広げた羽を見ると、今まで見たこともないすばらしい模様の蝶で、優しく外に逃がしてあげると、朝の太陽の光の中を美しく舞っていきました。以前、コンピエーニュの森では、鹿やイノシシに出会ったりしましたが、こんな美しい蝶を見たのは初めてでした。しかも向こうからやって来てくれたなんて、何か良い知らせかしら?と思ったりしました。
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その後、自然食療法士であり、様々な新しい療法を行うPさんとのセッションに出掛けました。
彼はハンザムで45才にもなるのにまだ結婚していない、とのことで、Cさんの家ではもっぱら話題の中心人物でした。さわやかな元大学教授でしたが、教鞭の仕事を全て止め、新しい治療の仕事に方向転換したということでした。

つづく

この後のセラピーセッションの話は、ヒーリングのコーナーで続けます。
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by lamteramoto | 2010-07-21 22:11 |

久しぶりのコンピエーニュ 1

私にとって”友人”と言えば、コンピエーニュの女友達です。

彼女たちとの友情のきっかけを作ってくれたRさんは、夫の友人でした。
2回目の出産で心身ともに消耗しきった私にRさんは、コンピエーニュの森に出掛けることを勧めてくれました。
当時、長男の幼稚園の先生が彼女の友人であったこともあって、一緒に出掛ける勇気を頂けたのでした。
フランス語がまだおろおろしている頃で、何をするにも自信がなくて、暗いトンネルの中を必死で歩いているような心情でした。

しかし、夫も「子供を預かるからいってらっしゃい」というので、暗闇の空中ブランコに飛び乗るようにコンピエーニュ行きの列車に乗ったのでした。そして、それから25年が経ちます。
パリの北駅から1時間(今特急に乗ると40分になっていて驚きました)、コンピエーニュは私を育ててくれた重要な町なんです。

この地域、中世から大変重要な変革が起こった場所としても有名です。
ジャンヌ・ダルクは、ここでイギリス軍に捕らえられました。

私たち女性たちの仲間は5人でした。その中の2人は、チベット仏教に帰依し、センターがあるドルドーニュ(フランスの中央から南)に引っ越していきました。私も10年、あちらのセンターに通い、いろいろな出会いを体験し、学び、分かち合いました。
フランスでの仏教体験、そのうちお話ししたいと思っています。


病んでいた私の面倒を一番よくみてくれたロゼンヌは、4年前、ドルドーニュに素敵な家を構えました。
彼女のコンピエーニュの家は、こじんまりとした庭があり、母と娘が住むには丁度いい大きさでした。この家の暖炉とピアノでどれだけ癒されたでしょうか。子育ての疲れ、都会生活の疲れを癒し、忍耐強い彼女と少しづつフランス語会話を実践し、また、インテリ系フランス女性の知識をたくさん教えてもらい、社会系、教育系、セラピー系、アート系と、豊かな時間を何年も積み重ねました。

そして、一歩一歩、フランスに馴染んでいくことが出来ました。

彼女の家の反対側には、身体障害者のための市民農園が作ら、狭い小道に表示がされてありました。
ロゼンヌが去った後の家と庭を通りから眺め、毎回草とりをした入り口の周りが草に埋もれてうっそうとしているのを懐かしく眺めてから、この市民農園を訪ねました。

今もコンピエーニュに残って私としばしば電話でおしゃべりするクローディーヌ。そして今回初めて出会った仲間の友人Dと3人で、この農園を視察に行きました。

なかなか魅力的な農園散歩歩道が整備されていて、感動しました。

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つづく
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by lamteramoto | 2010-07-21 17:45 |

革命記念日はどしゃ降りの雨だった

7月14日は、フランス革命記念日です。

フランスに長く住んでいても、この日にシャンゼリゼ通りに出掛けて、
革命記念日を祝ったことはありませんでした。

この季節、パリにいることもほとんどありませんが、
昨日はパリで、コンピエーニュということろから来ていた
友人Cと、茶道を試してもらったりして、楽しみました。

お昼ごろ、すごい雨が降って来て、驚きました。
ネットのニュースでみると、式典は終わったようでしたが、
浄化の雨としか思われませんでした。

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13日の前夜祭では、あちこち花火でにぎわうのです。
私は、浴衣を着て、いつもの散歩道、セーヌの橋に出掛けました。
花火の音はしませんでした。

息子が私の活動のPRフィルムを撮ってくれるというので、
何年ぶりかで化粧をして、浴衣を着ました。

夕暮れの光が美しい、橋の上でフラメンコ調盆踊りを踊りました。
通行人のユーモラスな若者が、
「彼女はゲイシャか?」と友人に聞き、
なんとCは「ウィ」と答えてしまって、ドキッ!

しかし、心を平たくして、彼がせがむキスを
彼の頬にしてあげました。

目的だったサルサのチームが、来ていなくて、
カップルばかりの別なサルサグループの集まりを眺め、
それから、しばらく、息子と友人と3人で、
人であふれたセーヌのほとりに腰を下ろし、
日本の河原を思い出しながら、
杏のジュースを飲みました。

また、その時の写真が出来たら、発表します。

これからの革命は、意識革命だから、
人々が、和気あいあいと楽しめる場があちこちに出来ることが
私の夢です。

この新しいセーヌの歩道橋で、
いつか、盆踊りとサルサの競演をしたいな〜〜、
と3年くらい前からイメージしています。

すでに、もう私自身が浴衣を着て、踊ったんですから、
夢が実現されるのは、そう遠くないかも知れません。


動画:エッフェル塔と花火
(映画『アメリー』系のムードで楽しんで下さい)
http://www.youtube.com/watch?v=Fdfe-ZYgNC4&
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by lamteramoto | 2010-07-15 21:46 | パリの日常

彷徨った末の日本文化 (あとがき)

日本に愛国心を持つように育てるのがいいのか、そうでない方がいいのか、今の私には明確な答えはありません。
ただ言えることは、日本は他の国と同様に地球上のある民族の歴史を経て来た魂の子孫であるということでしょうか。そのことに関して、私たちはなるべく本当のことを知る権利があるのではないかと考えていますし、そうあるべきではないでしょうか?本当の歴史を教える前に、子供たちに『愛国心』を押し付けても、それは成功しないと思います。

そして、海外の全ての国の民族の歴史や、文化を知り、交流することは意味のあることだと感じています。

私が来た頃の70年代のパリは、今とはかなり違った雰囲気がありました。旧いパリがまだあったと言う感じです。今はパリ臭さが薄くなって、多くの都市とさほど変わらないような気がします。

当時、私がフラメンコをやっていたので、出会う人ごとに「どうしてフラメンコをしているんですか?」とよく聞かれました。「それしか自分を満足させてくれる物がなかった‥」と今だったら、単純に本当のことが言えますが、その時代には返事に窮していました。

相手は大抵こう思っていたのです。「日本文化は素晴らしいのに、どうして洗練度の低いジプシー民族のダンスなんか‥」と。
こう思っているフランス人を説得することは、自分には不可能に感じられました。それまでの自分の人生の全てを語らなければならなくなりそうで、いつも口ごもってしまいました。
フランス人の文化に対する認識も、一般日本人のそれとは全く異なる教育や哲学が、意識の底にあったためであると、後になって理解しました。

そんなある日、友人から誘われてて、ルイ・マル監督のインドでのドキュメント映画を観に行くことになります。私たちが見たのはインド舞踊のダンスアカデミーでのパートでした。可愛らしいインドの少女たちに交じって、外国人が2人いました。アメリカ人と日本人でした。

監督はシーンごとにコメントを挟んでいました。
「みなさん、この二人の外国人のダンスをよく見て下さい。
インド人の少女たちのダンスとは全く違うことが分かりますか?」
そんな感じでした。
私は胸の奥がドキッとしました。あそこの日本人は私でした。違いは彼女はインドで、私はスペイン。それだけの違いです。この映画は、深いところで私の将来への道にストップをかけたような、重要な影響を与えました。その時、私はまだスペインの地を踏んでいませんでした。

この時から、アイディンティティという名の彷徨が始まったのだと思います。

「今、自分を日本人と感じているか?」と問うてみたら、答えは複雑になりそうです。
日本人だが、それだけではないような、そんな感じでしょうか。

最近の日本の若者たちを見て、この人達は日本人かしら、と思うことも多いです。それとは逆のケースで、戦後すぐにローマに渡り、それから55年あまりをイタリアとスイスで暮らしていたRさんと話していると、この方のような人が生粋の日本人ではないかしら、と感じてしまいます。日本語の美しさを持っている、現代日本語を知らないRさんの話し方を通して感じる日本の懐かしいデリカシーに触れるせいではないかと、自分では観察しています。

しかし、文化は変化して行くものでもありますね。人間が産むものですから、人間が変われば文化も変わって行くのは止むおえないことであり、また新しい文化を産むきっかけにもなってくる訳です。旧い日本文化の保管者でいるよりは、新しい、今までに人類がなしえなかったものを生み出せる、そんな創造性を発揮できる人間になりたいといつも願っています。

そして私にとってその基盤は、言う間でもなく祖国日本であることは、疑う余地はありません。

今日の茶室 花は寄り添って立つひまわり。
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これから次男の誕生祝いをやります。
彼は今年、私がフランスに到着した年齢になりました。
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by lamteramoto | 2010-07-04 23:33 | Art du Thé 日本の心

彷徨った末の日本文化 (3)

ここのところパリは、太陽さんさんで暑さも倍増。
暑さ嫌いの私の願いがかなって、今朝は雨。
茶室に降りて行くと、日本の夏の臭いがした。

あ、この臭い、なんだっけ〜
とクンクンすると、畳の臭いに、いただいたオニユリの香りが交ざっていた。

ジョルダン人が作った百合よ、と友人が先日持って来た。
あれからもう2週間余り経つ。
それなのに、まだ立派に咲いている。

それで、突然、朝からお茶の稽古をする気になった。
冷たいシャワーの後、今年初めての浴衣を付ける。

畳と木の床を拭き掃除してから、お釜をかける。
電気の風炉である。

いつものように、猫のシズカが邪魔をしに来る。
相手は猫でも、いないより増しかもしれない。

お茶の席での猫の叱り方など、先生から教えてもらわなかったが、
創意工夫して、ほほほ、シズカの叱り方を研究することに決める。


南仏で出会ったモロッコ人とのコラボパフォーマンスの話を続けます。
打ち合わせを1、2度しただけでしたが、結果は大成功。

よく憶えていない部分もありますが、大まかなシナリオを紹介します。

物語:
日本のサムライ時代に、剣術の修行をする男が化け物に出会い、
己の不動心をかき乱される。
一騎打ちの最後に、化け物から『不動心』という文字(手ぬぐい)を見せられ、
ひれ伏して降参する。

キャスティング
私:化け物
彼:修行者

友人が持って来ていたアフリカの仮面と奇抜な帽子(長いちりじりの髪のデザイン)を借りて、武道の袴に似たスカートを付けた私は、どこか東北のナマハゲに似ていたと思う。
能舞台の謡曲をバックに、モロッコ人のパートナーも剣道と能を稽古したことのある舞台人のプロだったお陰で、なかなか迫力ある出し物になりました。
登場人物の自分でさえ、わくわくしたくらいでしたから、集まった観客たちなどは、出だしから興奮していました。

いくつかのショーやコーラス、そして最後のステキなダンスパーティーの宵が終わり、南仏のシャトーの合宿は幕を閉じました。

お別れの朝が来ました。みな思い思いに、荷物をまとめ、それぞれ、あちこちで別れの挨拶を交わす。

荷物を引きずって出口の近くの中庭に出ようとしたとき、夕べのパートナーが5メートルくらい向こうから私を見ていることに気がつきました。
私たちの間にある気配は、暑い南仏の空気ではなく、また、親しくなれたからもうアミ(友達)だよね!というヨーロッパ的な軽いものでもなく、そこにあった空気は言葉にできないものがありました。一瞬、心でこんな言葉がよぎりました。

『もう一生合うことがないであろう、この人とは楽しかった。
でも、去り行く時の合間で、彼は一体誰なんだろう・・・』

彼は、そのとき、見事なお辞儀を、私に見せたのでした。
ゆっくりと、初々しく、尊厳をもって。

南仏の光と、一面咲き乱れた花の香りの中で、こんな優雅なプレゼントをもらうなんて、誰が想像できたでしょうか。
それは私が遥か昔に背を向けた、故郷の香りがする懐かしい『心の文化』の贈りものだったのです。




今朝のお茶の稽古。きちんとなっている筈が、
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猫がいたずらして茶杓が転がっていた。
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by lamteramoto | 2010-07-04 00:08 | Art du Thé 日本の心

彷徨った末の日本文化 (2)

京都で体験した最初の茶会から、フランスでお茶の先生に出会う時まで、なんと25年の歳月が流れていました。

西洋と日本は、何から何まで違う世界と言っても間違いではないでしょう。
岡倉天心の本も読みましたし、利休の物語、そして歴史も読んでみました。
しかし、理論や歴史よりも、実際手で、目で触れる豊かなコンセプトに参ります。
日常の中での動作を通じて、これだけの深みがあるものは、他の国であるでしょうか、と言いたくなります。
こちらの人達から見たら、歩くことからお辞儀までが、美の表現になっているんです。
そんなアートが海外で、一体どこにあるでしょうか?

そういえば、一度、日本の『芸道』に憧れていたというモロッコ人に出会ったことがありました。
南仏の気功研究所の夏の合宿に参加したとき、そこのセンターで食事係のアルバイトをしている男性でした。休憩時間に声をかけられ、おしゃべりしたのですが、まさか、彼が6年にもわたる日本体験のある人だとは思わず、彼の話を聞いて行くうちに、口があんぐり空いてしまいました。能、剣道、茶道・・と、難解と思われる日本の伝統文化に没入していたとのことでした。

千夜一夜の文化圏出身の彼が語る日本体験には、最後にオチがありました。
彼が憧れの日本を去り、祖国のモロッコに帰った時、アラブの茶会にお誘いがあったとか。その時、何気なく参加してみて、びっくりしたと言うのです。その茶会をリードしていたお年を召した女性の作法が、まるで日本の茶道を彷彿とさせる妙技だったのだそうです。

アラブ男子が日本でとことん異国の伝統に触れ、啓蒙された後に、祖国で同じものを発見したという感動的な物語。当時は確かに感動し、忘れがたい記憶になってはいましたが、プロジェクトガイアの書物をじっくり読むと、その両極にある国の文化が、この莫大な距離関係にありながらも、つながっているという史実を見つけることができます。まさにその事実をこの男性は自分の肌で体験したのだと今気づきます。何か打ちのめされるような感覚が起こってきます。

彼は能を学ぶ以前はモダンダンスをやっていたということで、ジプシーの民族舞踊からダンスパファオーマンスに転向していた私は彼と一緒に、恒例になっている合宿最後のパーティーに参加しようということになっていきました。

つづく

写真:子猫シズカとお茶
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by lamteramoto | 2010-07-01 05:56 | Art du Thé 日本の心